てんらいむもう ほんか
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━━━主爻
〈卦辞〉
「无妄。元いに亨る。貞に利ろし。其の正に匪ざれば眚いあり。往く攸あるに利ろしからず」
〈読み方〉
むもう。おおいにとおる。ていに よろし。その せいにあらざれば わざわい あり。いくところ あるに よろしからず。
〈説明の要点〉
「无妄」とは「みだりでない」という意味です。
无という字は、無の古字とされていますが、本来は「天」の文字から転じてきたもので、空しく形のないという意味です。
次に「妄」という字ですが、これは「みだり」です。
内容が空虚でありながら、色々素直でない期待や望みを持つことで、妄想・妄念など、そのものにのみこだわって他の大事なことを忘れてしまったような状態を妄と言います。
正常さや内実を失って、疑惑することです。
ですから「无妄」とは「内実がないわけではない」ということで、すなわち「まこと」という言葉と同義です。
風沢中孚という卦も「孚」を「まこと」と読んで解釈していきますが、中孚のまことと、无妄のまことでは、そのスケールが違います。
孚のほうは、人と人との相対の上でのまことで、己を空しくして他のために尽くす。
一方、无妄のまことは、相手が人間ではなく天地自然の運行であります。
たとえば太陽にしても、今日も東に現れ、西に隠れる。
地球に光と熱を与えて、ものを生かし育てて行くが、恩着せがましいところなど一つもないし、報酬を要求したり何かを期待したりもありません。
また、そうした无妄は、善人のためにだけあるわけでもなく、无妄の下には、善人も悪人も生き、死んでいきます。人間の生活にこれを当てはめれば、やはり太陽と同じような生き方をすることが无妄になるわけです。
たとえ善人であっても、自らの善を意識し善を口にする時は无妄でなくなってしまいます。
現実そのものを、もっと素直に肯定し、善悪正邪では律しきれない真実をも観ています。
それが无妄です。
では、なぜ震下・乾上が无妄なのかということになりますが、これは天と雷との自然の作用を見たものです。天は健やかに運るし、雷も道理に背くことなく行われます。
しかも、その動きは願うことがあり期することがあってするのではなく、天性自然のままの動きです。
そして運行は、限りなく公明で、いささかの疑惑も作為をもはさむ余地がない。
昔も今も、将来もその作用が違うことはないでしょう。そういう見方から、この卦に无妄という名が付けられました。
坤地は耕し利用することができ、坎水は灌漑飲用に供し、巽風は風車に離火は熱燈に、艮山は伐材狩猟に、兌沢は池沼の利便を有つというように、人間生活に利用できます。
しかし、震雷と乾天というものは、手にとってみることもできず、古代人には、いかんとも致し方がなかったということも考えてみるべきことでしょう。
人間のために存在してくれているわけではなく、彼らの性質のままに存在している……そこに无妄の象意を見たのです。
したがって无妄は、本来の意義において吉凶もなく善悪もない道理です。
また吉凶善悪をもって律しきれないのが无妄であります。
ですから、无妄は欲望や作為のない真実自然の作用を言うものなので、この卦を得た時というのは、それに則って処し、行動してゆけば、亨通を得られるであろうことは言うまでもありません。
「其の正に匪ざれば?いあり」とありますが、无妄は天道を正と見て人為的技巧を弄することを忌む卦ですから、善人であろうと悪人であろうと、妄をもって動くことは自ら?を招くこととなるわけです。
では、この正とは何を意味するのか?それは作為なく、天地の心に適うことを指します。
人が生活のために求めるのは稲で、田に草が茂ることは、いかに天意であっても喜べない。
自分達が生きるためには、他の者を犠牲にしてでも稲を作らなくてはなりません。
これは人間的な正しさではありますが、しかしここでは、そういう正しさではなく、妄りに望み求めない心……そういった消極的な(人間的には最も積極的な努力を要する)正しさです。
天地が无妄であるように、邪念・邪欲を捨てるということです。
そうでないと、天地の无妄に遭って、その欲望や期待が裏切られ、あるいはそのために災厄を生じてしまいます。
開物成務をもって、その心とするような具合にだけは受け取れません。
无妄の時には人間的な天の助けがなく、それを感じることができないわけですから「往く攸あるに利ろしからず」とあるのです。
(加藤大岳述 易学大講座 現代語要訳)