<爻辞>
「睽きて孤なり。豕の塗を負うを見る。鬼を一車に載す。
先には弧を張り、後には之が弧を説く。
冦するに匪ず。婚媾せんとす。往きて雨に遇えば則ち吉」
<読み方>
そむきて こなり。
いのこの どろを おうをみる。
おにを いっしゃに のす。
さきには ゆみをはり、のちにはこれが ゆみを とく。あだするに あらず こんこう せんとす。
いきて あめにあえば すなわち きち。
<爻辞の意味>
「そむいて孤立している。泥だらけの豚が見える。幽霊が車にいっぱい乗っている。初め弓で射ようとするが、後には弓を下す。冦を加えようとするのではなく結婚すべき相手であった。和合すれば吉」
「火沢睽」は「そむき異なる」ことについて説かれた卦です。
そんな中この上爻は、「そむいて孤立している」と言っています。
その上、遠くに見えるのは、泥だらけの豚や亡霊を満載した車がこちらに向かってくる様子…。
初め、この上爻は弓を構え、遠くに見えるそれら汚らしいものを射ようとしますが、だんだん近づいてよく見えてきたら、実はそれらは自分に危害を加えようとこちらに進んできているのではなく、結婚しようとこちらへ向かってきているのだということが判ります。
ですので、それを受け入れ結婚し、和合すれば吉だと言っています。
「占った事柄」と「上記の説明」を、スライドガラスを2枚重ね合わせるようにして解釈してみて下さい。
また、下記の
「加藤大岳述 易学大講座」の要約も、ぜひ併せてお読みになり理解を深めましょう。
<説明の要点>
この爻辞は、応爻の三爻と照らし合わせるべきものです。
まず「睽きて孤なり」は、四爻の場合のように、応爻と陽同士で親しまないということではなく、応爻の三爻が二爻・四爻と泥んでいるかと疑って、これを憎み睽いているのです。
その状態が「豕の塗を負うを見る」以下の表現となっています。
応位のこの五爻と応せずに、比爻と親しむ三爻を豚のように汚らしい存在に喩えました。
それは互体の坎を豕(いのこ)の象に取ったとも見られます。
しかし三爻は、その坎の主ではなく下爻で陰土と混ざっているところで単に汚い豚であるだけでなく、おまけに泥まみれになっているというのです。
これが、三爻の爻辞での「始め无く」に当たります。
その汚さを厭い嫌うあまり、あたかも鬼をいっぱい載せた車を見るような恐怖を感じるのです。
坎を鬼とし車とするので、そのような恐怖による連想と相通じるのは当然です。
そこで弓を引き、射殺そうとしますが、それは自分の疑いから生じたものであることをその離明によって省みると、その弓を脱(はず)して和解する。
もとより、この上爻が離の極にある激しさで三爻に弓矢で臨むのは、決して冦するためではなく、婚媾しようという親和の欲求からであるのです。
その陰陽交和の婚媾が、「往きて雨に遇う」ことです。
雨に遇うというのは陰陽両気の相和するところで、上爻と三爻の応和を指します。
これが三爻の爻辞の「終り有り」に当たります。
このような好ましい(吉)終りを見ることができるのは、三爻と比爻とを色々疑ったが、その疑いが晴れての結果であります。
(加藤大岳述 易学大講座 現代語要訳)